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zoom RSS 読書:田川建三『新約聖書 訳と註』 ヨハネ黙示録

<<   作成日時 : 2017/09/07 16:47   >>

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13年かかった田川建三の新約聖書翻訳が遂に完結である。長年の田川ファンとしては、慶賀の至である。なんせ、1935年生まれだから、今年で82歳。高齢ゆえに、完結を待たずして病に倒れるなんて状況はいくらでもあり得たのである。

近年の刊行ペースは二年に一回だった。最終稿が上がって最終校正も終わった頃になると田川自身のホームページが2年ぶりに更新されて、そろそろ新刊が出ることと近況として病気をして寝込んでいたことなどが報告されるというのが最近のパターンだったのである。まずは、よかったよかった。

しかし、、、、この調子でいくと『事実としての新約聖書』(新約聖書概論)が発刊されるのは、2ー3年先になりそうだし、それまで田川建三先生の元気が持つかどうかは相当に怪しい。何としても、ここは頑張っていただきたい。そうでないと、日本のキリスト教理解が生半可なまま続いてしまう。日本人のおめでたいキリスト教観が維持されてしまう。それは堪忍してほしい。

で、現物を買ってきて読んだ。訳文41ページ、註が約800ページという配分も相変わらずで、註の文章の中で炸裂する田川節も相変わらずというか、しつこいぐらいに聖書協会の翻訳(文語訳、口語訳、新共同訳)とアメリカ聖書協会の英訳(RSVとか)をこき下ろしまくる。今回は岩波訳が槍玉に上がってないなと思ったら、岩波の黙示録翻訳は特に程度が低いので相手する気にもならないのだそうだ。代わりに槍玉に上がっているのは佐竹明の(注解書の)翻訳と解釈。読みながら「ああ、私は佐竹明の親族親戚でも友達でもなくて良かった」としみじみ思いたくなるくらいに執拗な批判(というか、攻撃だよなぁこれは)を繰り返す。

・佐竹は学問のやり方を根本的に間違っている。しっかりと証拠を上げることには何の興味も示さず、他人の「論文」の結論だけを写してきたとて、それじゃ学問にはならない。それも大部分は近頃の学者になりたがり屋の連中(ほとんどは学問ごっこのお遊びの水準)が業績稼ぎに書いた「論文」を何百と読んだとて、何の役にも立つまいに。p.85

・佐竹さんは太陽が地平線から上って来る瞬間を見たことがないのかしらん。p.91

・佐竹はこの人たちのことを「リベラルな性格を持ったグループ」とレッテルを貼ってお出でだが、このレッテルがエイレナイオスの悪口に起因する、という事実をご存知ないままに、それに乗っかっておいでなだけである。p.110

800ページの注釈の中でこれを延々続けるのである。いや、日本にとどまらず、英独仏の聖書学者を片端からこき下ろしている。

・この種の学説をご自分で検討しないで尻馬に乗る奴が多いが、たとえばローマイヤー。(中略)尻馬進学者はそれを有難い神学の教えに転化しようというのだから有難や聖書学も困ったものである。安物学者は学問をやらずに神学ごっこをやっている。p.175

果てはルターの翻訳も批判にさらされるのだから、半端では無い。私も含めて田川ファンというのは歯に衣着せぬ田川節=罵倒を楽しむという不埒な趣味の人間が多い筈だが、ここまで徹底的にやられてしまうと、さすがに辟易というか、「田川先生、よく分かりましたから、そのあたりでやめてください。読んでる私たちが辛くなりますから」状態である。叩かれている相手が可哀想になってくるぐらいに田川はしつこい。

田川は、自分で書いた原稿は何回も繰り返して推敲するのだと、あるところで述べているのだが、あそこまで繰り返しているとご自身で読んでいて辛くならないのか?とも思いたくなる。しかし、田川はこの調子で全7巻8冊の註を書き切ってしまったのだ。

そして今回、あとがきを読んでいたらこんな一節に出くわした。

「(佐竹明について)自分が若い頃から何かとお世話になり、尊敬してきた先輩、畏友の書物をここまで徹底して、いわばなますに刻むようにして批判を叩きつけるのは、私としては心理的にずい分迷ったのだが、学問である以上、下手な手加減は許されない。…(中略)……真理、真実を明らかにする作業では一切の手加減も許されず、徹底した相互批判を通してしか正確な認識は得られない。学問は非常に徹しなければならないのである。むろん、佐竹さんもそういうことはよく了解なさっておられるはずである。この書物を書き進む時に、私の心には常にその点で痛みがあったが、我々はこういう仕方で協力して学問の真実を前進させていかねばならない。」

うーん。心に痛みを感じておられたんですか、、、
その上であれをやっていらっしゃったということを読むと、田川先生自身が「痛い人」に見えてきました、、、

既存翻訳に関する罵倒は、他巻でもお馴染みのことではあったのだが、今回はそれに加えて「黙示録編集者S」への攻撃が凄まじい。田川は今回の訳と註で「黙示録の原著者が書いた本文に対して、ほど同量の文章を書き加えた編集者Sがいる」という説を唱えた。Sは「サディスティック」の略であり、黙示録で有名な、天使のラッパとともに地上が破壊し尽くされあらゆる生き物が滅ぼされるというような話を書いたのは全てこの編集者Sなのだというのだ。異教徒をホローコーストしたくて堪らないガチガチのユダヤ教教条主義者というのが田川の見立てなのだが、原著者の文章と、編集者Sの文章は使っている語彙や文法で分離することが可能だとも田川はいう。編集者Sは文法が滅茶苦茶だというのだ。ギリシャ語が得意でないのに、無理に文章を書き加えたから、前後の話は繋がらないし文章自体も目を剥きたくなるような文法の間違いで一杯だという。引用すると、以下のようなものである:

・のっけから、構文上ひどく手抜きの下手くそな文。以下最後まで、この手の構文不整合が連続して出現する。編集者Sがそもそも西洋語の文法構造をろくに理解してない証拠。と言うか、そもそも言語の文章構造というものが理解できていない。 p.54

・下手に自己流に言葉を付け加えようとするから、しっぽを出してしまった。p.59

・属格支配の前置詞に続けて名詞を置くのに主格の語を並べるなぞ、唖然とするしかない。(中略)冒頭から不注意でこの種の幼稚な文法的間違いを犯す人は普通はいないだろう。それにこれはギリシャ語の初歩の中でも最も初歩、(中略)つまりこの人、そもそもギリシャ語文法をろくに知らないのである。p.59

これが第1章1節から4節までからの抜粋である。これが第22章の終わりまで延々と続くのだ。

これに加えて、編集者Sのユダヤ教教条主義への攻撃も凄まじい。田川の読者なら保守的なユダヤ教の感性がついに抜けなかった使徒パウロに対する田川の攻撃的文章の数々を思い出すだろうが、パウロより小物の編集者Sへの攻撃はさらに凄まじい。2世紀初頭の西アジアのどこかであのギリシャ語を書いていた著者からすれば、まさか2000年近く経って遥か東の島の人間が自分の書いた文章に悪口を並べているなんて想像もできない事態だろう。

ということで、田川訳新約聖書全8冊の中で田川節の濃度はこの巻が最も高かったです。

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とまあ、「田川節は健在だった」報告はこの辺りにして、内容的な話。やはり「編集者Sの加筆」という田川の見解は面白いと思う。そして、田川訳で編集者Sの加筆部分とされる部分を除いて通しで読んでみると、難解だった黙示録が実にすらすらと読めてしまう。「え、これだけの話だったの?」状態である。つまり、

「私は幻視しました。ローマが滅びて民族の隔てなく人々が平和に暮らせる状態を。終わり。」

天使はラッパを吹かず、海は血に染まらない。悪の勢力はハルマゲドンにも集まらない。千年王国もない。それが、ヨハネ黙示録の元々の姿だったのだというのだ。もちろん、味わうべき文章はそこにもいろいろある。マルクスが貨幣物神のくだりで引用した13章、田川先生お気に入りの18章などは原著者の文章だという。ただ、話と描写があっちこっちに飛んでなんの事やらよく分からなかったヨハネ黙示録の話の筋が、田川説では、実にスッキリと見える。天使がラッパを吹いて地上が破壊されるみたいなスペクタクルはないけれども、分かりやすい構成の話だったのである。

元々はそんなに難解でも複雑でもなかったヨハネ黙示録だが、編集者Sが「ユダヤ人だけが残されて異邦人(ユダヤ人じゃない人々)は滅びる」という立場から執拗に加筆を行い、ホロコースト趣味の視点であれこれと書き加え(田川によれば、その場の思いつきで程度の低い文章を突っ込んでいった)訳が分からなくなった、、ということらしい。

実に面白い見解だと思う。願わくば、専門家の検証を待ちたいところだが(だって、古典ギリシャ語が相当に分かっていないと、あの註はきちんと読めないもん)、田川建三の説を取り上げようという聖書学者がもはや日本にいるとは思えないのが悲しいところである。田川先生の孤独な戦いは著作を残す事でしか世に問えないのだろうか。

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附論:田川建三にはなぜファンがつくのか

田川建三がコアなファンを獲得している理由は、護教論的発想をすっぱり切り捨てている聖書学者だからである。彼は教会とキリスト教自体を突き放して見ている。例えば使徒パウロの「女は会堂で発言するな」という発言を、女性蔑視と田川は言い切っている。要するにパウロは大変に保守的な心性の持ち主だったのだ。そして、大方の聖書学者がいろいろと理屈をこねたりそれっぽい文献を出してきて、「パウロの真意」を言い繕おうとする中で「この発言は、取り間違えようのない女性蔑視の発言だ」と言い切る。現代の基準からすると問題となる発言は困る、つまり聖パウロともあろうお方なら普遍的に立派な人でなくては困る、聖書の言葉は神が聖書記者に霊感を与えて書かせたのだし、、、云々という信者的発想からすると困ったことになる事態であろうとも、田川は反論を退ける。そんな信者の事情など持ち込むなと一蹴する。

フツーの人が、パウロの「女は会堂で発言するな」を読めば、フツーに女性蔑視の人だったんだねと思う。でも、信者サイドの人たちはなんやかんやと理屈をつけたがる。いわゆる護教論というヤツである。キリスト教に心を奪われた人はともかくとして、フツーの感性が残っている人はそういう護教論は胡散臭いと思っているし、鬱陶しい。そしてそれを口にすると、信者サイドはさらに理屈やら「証拠」を積み上げてくるので更に鬱陶しくなる。彼らが積み上げてくる「証拠」をいちいち反論するのには多大な労力を要するからである。なんせ、彼らのバックには聖書学者達がそれっぽい理屈をいっぱい用意してくれている。

2000年にわたって築き上げられたこの護教論の城を攻めるのに、田川建三の著作は大変役に立つ。歴代の聖書学者たちの論拠を、事細かに「テキストの読み方が間違っている」「ギリシャ語の解釈がおかしい」と暴いてくれるからである。キリスト教に対してモヤモヤしたものを抱きつつも、それを具体的な言葉にできないでいる知識人にはうってつけの素材を田川建三は提供してくれている。

これは、単にキリスト教に漠然とした反感を持つ程度のインテリではできない仕事である。向こうが展開している神学の中に相当程度に入り込まない限り、きちんとした反論は構成できない。2000年近い歴史を誇る組織神学はそんなにヤワなものではないのだ。

田川建三がそこに切り込んでいけたのは、新約聖書の正文批評という物証主義(というかテキスト主義?)で作業したことが大きいのだが、元々はキリスト教の環境で教育を受けた人であることが大きいと思う。変な喩えかもしれないのだが、UFOや心霊現象について懐疑論を展開している人には、UFOや心霊現象を信じていた過去がある人が多いという現象に似ている。つまり、UFOや心霊現象を鼻から馬鹿にしている人たちは、UFOや心霊現象のことを深く知ろうとはしない。深入りするのも馬鹿馬鹿しいからだ。そういう人たちがビリーバー(信者)に反論しても、深いところで突っ込めない。しかし、ビリーバーの過去がある人たちは相当に細かいところまで深入りしたことがあるので、反論も無闇に細かいのである。そして、過去の愛着が裏返しになっているので、議論も長続きするし持久力がある。

田川がどこでキリスト教の信仰から自由に物事を考えられるようになったのかは、本人がはっきりとしたことを語っていない以上知る由も無い。しかし、国際基督教大学で教職を勤めていた時代に「存在しない神に祈ろう」と学内礼拝の講話で話し、それが遠因で大学を辞めさせられることになったと語っているから、その頃には人類が神に祈ってきたという行為には敬意を表しつつも神の実在は否定していたことは確かである。しかし、恐らくは東京大学文学部修士課程で西洋古典学を学んでいた頃にはキリスト教の信仰に距離を取っていただろうし、マルクスの考え方なども学んでいただろう。

蛇足になるかもしれないのだが、東大文学部修士課程の西洋古典学科(の古典ギリシャ語)は、プロテスタント系神学者のエリートコースである。そして、どんな学術分野でもそうなのだが、ここで(新約聖書の)ギリシャ語を学んだ学者さんたちは、狭いコミュニティーを形成した。田川建三がかなり執拗に批判し続けた聖書学者荒井献にしても、今回のヨハネ黙示録で散々槍玉にあげられた佐竹明にしても西洋古典学科の同窓生なのであり、個人的な行き来もあった。コミュニティが狭かっただけに、人間関係のこじれ方も半端なかったのでは無いかとも想像できる。

荒井献にしても佐竹明にしても、田川建三の批判から浮かび上がるのは「要領の良い学者」像である。欧米の主流学説を効率よく(あるいは貪欲な数量の論文を)取り入れて論文を書いていく生産性の高さで評価されるという学者像なのだが、荒井や佐竹が本当にそういう学者なのかどうかは私はご本人たちを知らないからなんとも言いかねる。しかし、田川の批判を通じて見えるのはそういう学者像だから、田川はそのように彼らを見ていたのだろうし、そういう学者はどの分野にも居た(私の専攻した分野にももちろん居た)から、説得力はある。そして、その手の要領の良い学者が学閥みたいなものを形成していくのを田川が快く思って居なかっただろうことも容易に想像はつく。

田川はそうした要領とは無縁の道を進んだ。国際基督教大学を追われてからは独力でドイツに行き、アフリカの大学にも赴任し、帰国後は聖書学以外の講義で糊口を凌ぎ、退職後は一般市民を相手に私塾を開いて聖書学を講義し、独力で新約聖書を翻訳し、ほとんど罵倒と変わらないような言葉でかつての同僚の仕事を批判し続けた。愚直なまでにそれを続けたのだ。言ってみれば、「呪われた知識人」である。このポジションに田川は嵌っており、それがファンを呼び寄せているのである。

私も長年の田川ファンを自認するものなのではあるが、こうした事情に基づく田川ファンの構造に無意識で居られるほどの無知でもない。それだけに、精神病理学的な領域に達しているとすら思われる田川の罵倒癖にも無頓着では居られない。

学問上の真実を追求するために情を排した批判は不可欠だと田川は言う。だが、田川の言う「非情」(=情を排した)の実質は「ネガティブな情が満載」なだけのようにも見える。情を交えた学問が百害あるものだとすれば、ネガティブな情を交えた学問はさらに害がありそうなものだ。田川節は少なからぬファンを獲得した。そのファンの存在があればこそ、田川の『新約聖書 訳と註』の出版が可能になったのかもしれないが、あの罵倒が学界全体の向上に繋がったのかは疑問である。田川ファンを自認するものとして悩ましい事態である。

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