『モテキ』を衝動的に語る

映画の『モテキ』を観た。そうしたら、原作のマンガが読みたくなって5巻すべてを読んでしまい、その勢いでそのままインターネット動画でTVドラマ全12話も観てしまった。いい年こいた50代のおっさんが、いまどきの恋愛映画なんぞにハマってどうするなどと、自らを叱咤したが時は既に遅く、私の『モテキ』週間は怒涛のごとく進行して終わった。

言い訳をするようだが、そもそもこの映画を見る気になったのは、某ブログで大学教授&映画評論家という60代の爺さんが「最近まれに見るラブコメディーの快作」とのたもうたからである。
http://astand.asahi.com/magazine/wrculture/2011100300010.html
やはり60歳を越した糸井重里は、相当『モテキ』に入れ込んだようで、主宰するインターネットサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」で二度(TVドラマの最中と、映画化されたときに)関係者を呼んで長編対談を組んでいる。
http://www.1101.com/moteki/
http://www.1101.com/moteki_movie/index.html
この作品のメインターゲットはどう見ても20代を中心とした層だが、どうも高年齢層をしても多弁にさせる何かが『モテキ』にはあったようだ。(もちろん、マンガも、深夜ドラマも、映画もメインターゲットに対してヒットした作品である。)私も、数日間この映画やマンガについて誰かに語り合いたいという欲求を抑えることが難しかったし、今こういうことを書いているのもその余波だろう。

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仕事もなくて自分に自信がなくて童貞で30歳の「恋愛低偏差値」男に、ある日突然、女性たちからメールやら電話が入るようになり「俺は人生のモテ期に入ったんじゃないだろうか」と舞い上がって繰り広げられる空回りコメディと書けば、話の展開はおおよそ察してもらえると思う。ここまであからさまに「童貞」という言葉が連呼されるのは珍しいと言えば珍しいが、ダメ男を描くのは別に目新しい題材ではないし、物語全体は「他人と関わることに不器用な主人公が、様々なトラブルを経て他人へ踏み込めるようになっていく」という、青年の永遠のテーマを扱っているから、陳腐といえば陳腐、王道といえば王道である。好きな人に好かれたいという気持ちで悶々とした経験は多かれ少なかれ誰にもあるからこそ、この種の物語はそれこそ量産されてきたのだ。加えて、非正規雇用で不安を抱えた30歳だとか、サブカルチャーのマンガと音楽に浸って自己充足するオタク、女性に関して完全待ち受け状態の草食系男子、などの現代社会を語る上で繰り返されている言葉にも事欠かないから、旬な作品とも言い得るのだろう。

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ただ、そういうことを並べても、この作品が60代の男たちの琴線にも触れた核心には近付かないのだと思う。「昔からよくある、あの手の作品」で括っていたカテゴリーをはみ出て、突出したものがあったからこそ『モテキ』は高年齢者層までトチ狂わせてしまったのである。実際、マンガも映画も変な過剰さがある。映画やドラマでも映像化された「女神輿」はその最たるものかもしれない。「俺にもモテ期が来たぞ~」と叫ぶ主人公を、半纏を纏った美女たちが主人公を神輿の上に担ぎあげ、「ワッショイ、ワッショイ」の代わりに「好きよ、抱いて、好きよ、抱いて」と黄色い掛声を出しているのである。モテない男の妄想にしても、これをマンガの見開き2ページで描いたり、TVドラマのオープニングタイトルで繰り返すのは「過剰」という言葉でしか意味を成さないのではあるまいか。

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マンガでは初対面の男女が、唾の掛るような距離でお互いに血相を変えて
「ハタチだからって自分の処女性に価値があるとでも思ってんのか!」
「オッサンが得意げにまくしたてんなよ、男なんて結局ヤらせてくれそーなイメージが
持てる女にしか怖くて行けねーんだろ?」
「うるせぇよ 処女なんかドブに捨てて来いや!!」
「お前こそ捨てとけよ!! バーカ バーカ」
みたいな罵り合いを始めるシーンがある。誇張と戯画を旨とするマンガに相応しい馬鹿々々しさではあるが、マンガというのは実は時代々々のステレオタイプにかなり強く縛られるメディアでもある。だから、新しい表現が現れると話題になるのだけれども、この童貞と処女を巡る罵り合いは、この言葉(童貞&処女)への世代の鬱屈が語られているシーンとして読むと、案外に新しい表現にも思えてくるのだが、どんなものだろうか。そういえば、前述の糸井重里は「こんなにややこしいものをエンターテイメントとして多くの人々が読んでくれてるって、すごくいい時代になったもんだね」と感慨深げに語っているが、今までの物語を覆っていた紋切り型の制約の何かが、ほんの少しだけにせよ外れて、我々が抱えている生の感
情が露出したように糸井も感じたのではないだろうか。

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主人公のダメ男さ加減は半端なく情けない。よくもまあ、ここまで突き放してダメに描けるものだと感心していたら、作者の久保ミツロウは女性だとマンガ第1巻のあとがきで知った。彼女があちこちの対談やインタビューで話していることだが、モテない女である自分を全てさらけ出して主人公に投影したという。モテない女の話なんか描いても面白くなかろうから、男の話に置き換えたというのだ。青年誌の読者だって、モテない男の話を読みたいと思わない筈なのだが、なぜその事実を見なかったのだろうか。言うまでもなく一般的な男性読者が読みたいのは、「もてない男が、一人の女性に認められて自信を持つ」みたいな話なのであって、「自分がモテないことを自虐的に語り続ける」話ではない。ともかくも、本人の説明によれば執筆は「自分をカウンセリングするような作業」と化したのだそうで、ダメさ加減を突き放しながらも主人公に寄り添う視点がぶれず、大変面白い作品に化けてしまったのは作者のそういう事情が上手く作用したからかもしれない。そして、女性キャラクターの描き方が細やかなのも良い。男性作家だったら、彼女たちはもっとステレオタイプな描かれ方をされていただろうし、実際TVドラマ版ではそうなった。

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映画版(そして同じ監督によるドラマ版)は映像のセンスが、かなり変である。最近のTVドラマは写実を離れて、かなり露骨な作為を絵にしているように思えるのだが、この監督はその中でもかなり特異なところでやっているのではないだろうか。前述した「女神輿」をそのまま映像化したこともそうだが、夜の街を歩く主人公の頭上に大きな影絵が現れたり、字幕が道路の上を流れていったり主人公の部屋の天井に描かれていたり、昔だったらアートシネマでやりそうな演出(小難しい映画青年だった人には周知であるが、1930年代のドイツ映画『カリガリ博士』で有名なシーンがある)と並列して、主人公の高揚と共に街中の通行人が一斉に踊り出しすような『ウエストサイド』みたいな娯楽演出と、劇中挿入歌の歌詞をカラオケ風に表示するような下らない演出を次から次へと出してくる。快作というより「怪作」のノリなのだが、それでいて、娯楽映画の枠を外していない。

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そんな風に書くと、かなり作為的な絵作りをする作風と思われるかもしれないが、ドラマでも映画でもセットをほとんど使わず、手持ちカメラも多用する演出はドキュメンタリータッチでもある。マンションの廊下で行われたキスシーンでは、舌が絡み合う様が想像できるような生音が聞こえてくる。インタビューによれば、市販の一眼レフカメラの動画機能を使って撮影するという手法もドラマでは導入されていて、街中のゲリラ撮影や、狭い場所での近写などに活用されたという。そういうリアリズムの真っ最中に、「女の言葉が銃弾のように主人公が胸を打ち抜き、血を吹いて倒れるという心理描写」が続くという演出は
相当にタチが悪いと思うのだが、要するにこの監督は相当の手練(てだれ)である。

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主演の森山未来も、相当に上手い役者なのだろう。滑稽を演じながら媚を売ったようなところがまるで無く、原作通りの人物を正確に演じきっている。「一人でベッドの上で悶える」というシーンなどでは、彼は機械的に体を痙攣させて海老のように跳び跳ねるという身も蓋もない演技で苦悩を表現した。彼はあるインタビューに答えて「(主人公の頭の中は)ほんとにばぁーっと散らかってるから、演技していて、整理しようと思うと破綻するんですよ」「だから整理しない事にしたんです」と発言しているのだが、これが大正解のようである。苦悩する主人公の物語はそれこそ昔から腐るほどあるが、ナルシステックに思い悩む男の型から中々抜け出ることは無かった。そこを、原作のマンガも映画も前後の辻褄の合わない行動に主人公を走らせ、その滑稽さで突っ走ったがゆえに、我々はそれを新しい表現と受け取れるのかもしれない。

これとは対照的な話なのだがドラマ版では、女性たちのキャラクターがスタッフと女優さんたちによって整理されすぎて、「恋愛ゲームに慣れた女」とか「小悪魔な女」みたいなステレオタイプ化が進んだような印象がある。そういう整理には納得もいくのだがマンガの原作が持っていた女性キャラクターの魅力の一端が失われたことになっていないだろうか。曖昧なところもあったし、ステレオタイプに整理するには矛盾するところもあるようなキャラクターだったような気がするのである。普通に考えると、そういう未整理部分は作品の瑕疵となるようなものだが、未整理な部分を残していたがゆえに強かったとも言えなかったか。

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映画版が面白かったのは、ドラマ版の女性キャラクター3人分を盛り込んだ一人のヒロインを設定して新しい物語を作ったことだろう。おかげで、物語の前半はこのヒロインがどういう女性なのかがさっぱり分からず、それが素晴らしいまでに面白い。主人公に襲ってくださいと言わんばかりの行動ばかりを彼女がとるのは天然に無防備なのか、遊び慣れているからなのか、それとも主人公を信頼しているからなのか。前述の60歳を越した映画評論家&大学教授は蘊蓄を展開するなかで、彼女をハリウッドの古典的コメディ映画で現れるスクリューボール(変人)キャラクターとして説明しているが、要するに、何を考えているのか分からない、辻褄の合わない行動で主人公を引っぱり回す役割である。長澤まさみ演じるこの女性の堂々かつあっけらかんとした存在感とは対照的に、主人公の狼狽が際立つのは言うまでもない。

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もっとも物語の終盤に向かってヒロインは内面を持つ一人の女性に収斂していき、それが「だんだんに物事が見えてくる主人公」にシンクロする。これは物語を終結させる古典的な処理だし、なかなかよく出来ているし、エンターテイメント作品なんだから、そうなるんだろうなとは思う。が、物語前半の弾け方が半端なかった分、残念だった気がする。訳のわかったキャラクターよりは、訳のわからないキャラクターの方がはるかに楽しいし様々な新しい物語を展開していく力がないだろうか。

物語のラストシーンは、マンガ版とドラマ版では異なり、映画版はマンガ版に似たシーンが用意されたのだが結末を重視しない私は、どちらでも良いことだと思っている。愛の獲得で終わろうが愛の喪失で終わろうが、それらはコインの裏表みたいなもので中身は何も変わらない。「愛する人を獲得する」ことは成長の換喩(言い換えたもの)であるし、「愛する人を失うこと」はそれに耐えて成長することを暗示しており、どちらも「成長」という物語に侵されていることに変わりはないのである。

はっきり言って、私みたいな五十男や六十代の爺さんどもには成長なんてどうでもいいのである。今まで生きてきて言葉にできずに抱え込んだままの諸々になんとか形を与えられないものか、あるいはその一端を垣間見せる表現に出会えないものかなどという、まことにどうでもよいことを気にかけているからである。『モテキ』がそうだと言うつもりはない。だが、陳腐にまみれた恋愛物語の中にも、光る一瞬があるとは言えるような気がしたのである。

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